紅茶の歴史
安政6(1859)年横浜港が開港されると、米国に緑茶180tが輸出されます。
しかし米国では、既に緑茶から紅茶に人気が移っており、
これに対応するべく日本でも輸出用紅茶の産業化を検討することになりました。
明治8(1875)年には、元幕臣で、維新後に茶業に転じ、
茶の栽培法の改良を進めるなど熱心な開拓を続けていた多田元吉通訳2名を
清国へ派遣されます。
元吉は江西、湖北など著名な紅茶産地を訪れ、栽培や製造法の調査し、
機器や種子などを購入しました。
明治9(1876)年には、今度はインドに赴き、日本人として初めて
ダージリンやアッサムなどの奥地に入り、栽培、製造、経営法、
アッサム種をはじめとする種子の収集などを行って日本へ持ち帰りました。
日本へ戻った元吉は、高知県香美郡で赴き、
自生するヤマチャを使ってのインド式紅茶作りを開始し、試作品を完成させます。
この元吉最初のインド式紅茶の見本は英国やイタリア、米国などにも送られましたが、
日本種がインドのアッサム種の量が半分程度のため、インド茶を好む英国人には
薄く感じられたと思われ、辛口の評価が返されてきました。
しかし、横浜の外国商社などに持ち込まれると
「インド産には及ばないが、中国産紅茶よりもずっと優れている」と、
予想以上の高値で買い取ってくれましたことから、
政府は紅茶の生産に的を絞り、全国に紅茶伝習所が設けられました。
そうすると、やがて辛口の評価をしていた英国公使館も
「この上もない素晴らしい味」と賞讃を返す程、
元吉の教育の成果が現れていきました。
元吉がインドから持ち帰ったアッサム種の中には、耐寒性に優れるものも
いくつかあり、これらの子孫をもとに日本種との交雑育種が行われ、
後進の手によって
水色が濃く、渋みの強い茶が日本でもつくれるようになりました。
昭和46(1971)年の「紅茶の輸入自由化」によって国産紅茶の生産が減少しましたが、
現在でも静岡を始め、高知や九州、沖縄などで紅茶が生産され続けています。