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日本におけるコーヒーの歴史

コーヒーの歴史

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日本に初めてコーヒーが伝えられたのは、江戸時代初期(1640年代)の
長崎出島説が最有力です。
オランダ人商人によってもたらされたと言われています。
ただ当時、コーヒーを口に出来たのは、彼らと接触することが出来た
役人・商人・通訳・遊女などといった限られた人達でした。
 
お茶の文化が根づいた日本では、独特の苦味や香りに馴染めない人も多く、
本格的に普及することはありませんでした。

 

コーヒーの伝来から約200年後の文政9(1826)年、
長崎出島に来日したオランダ人医師・シーボルトは、
日本人にコーヒーを飲む習慣が未だないことに驚きます。
そして、自身の著書『薬品応手録』で
コーヒーの飲用をすすめる文章を掲載しました。
健康長寿に効果的な良薬であることをアピールてし、
コーヒーの普及に一石を投じたのです。
 
 
また、文化1(1804)年に、
狂歌師として有名な大田南畝(蜀山人)が
日本人自身による我が国最初のコーヒー飲用体験記
『瓊浦又綴(ケイホユウテツ)』の中で、
 
「紅毛船にて"カウヒイ"というものを勧む、
 豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、
 焦げくさくて味ふるに堪えず」      と評しています。
 
 
コーヒーが広く知られるようになったのは、
やはり安政5(1858)年に日米修好通商条約が結ばれて、
自由貿易が始まってからのことです。
 
長崎、神戸、横浜、函館などに次々に外国人居留地が作られて、
日本人が洋食やコーヒーを口にする機会はどんどん増えていきました。
それでも最初は、ほんの一握りの上流階級の人々の口にする、
ハイカラな高級飲料の域を出ることはありませんでした。
 
 
明治21(1888)年に、日本人の鄭永慶が東京上野の西黒門町に
日本で最初の本格的コーヒー店・「可否茶館」をオープンさせました。
アメリカに留学し、帰国後に官吏や教育者を経てこの店を開いた鄭永慶は、
文学者や芸術家達が集うフランスの文学カフェをイメージしていましたが、
時期尚早で、残念ながら数年の後には閉店せざるをえませんでした。
 
コーヒーの輸入量は初めて輸入された明治10年には18tでしたが、
明治21年頃には60t程度に、明治40年代になると80t程度になり、
喫茶店もいくつか開店するようになりました。
 
 
日本でのコーヒー文化の先駆けは
「パンの会」(コーヒー愛好家の会)です。
森鴎外が指導して明治42(1909)年に創刊された
文芸雑誌『スバル』のメンバー、
北原白秋、石川啄木、高村光太郎、佐藤春夫、永井荷風などが利用した
日本橋小網町の「メイゾン鴻の巣」が文士の社交場となったのです。
その店では、本格的なフランス料理や洋酒の他、
本格的な仏式の深煎りコーヒーを出していました。
 
 
このような文化サロンの役割を果たすカフェがいくつかできて、
日本にもやっとカフェ文化の風が入ってきました。 
しかし、いずれもまだまだ一般の人には敷居の高い店ばかりでした。
 
そんな頃、銀座にオープンした『カフェ パウリスタ』は、
最初こそ文士や文学青年たちの社交場でしたが、 
高級西洋料理店のコーヒーが当時15銭だった時に、
1/3の5銭で本格的な香り高いブラジルコーヒーを味わうことが出来たため、
あっという間に大繁盛し、大正時代の最盛期には、全国に20余りの支店を
数える程になりました。
 
 
昭和に入ってますます需要を伸ばしますが、
第二次世界大戦でコーヒーは『敵国飲料』として輸入停止となり、
日本人の生活から一時期コーヒーは姿を消してしまいます。
 
戦後、輸入が始まるのは昭和25年です。
そして現在の日本では、様々な形でコーヒーが飲まれているのです。