紅茶の歴史
1600年に設立されました。
1664年に東インド会社が国王チャールズ二世に茶を献上して以来、
英国内では紅茶を飲むことが流行しました。
イギリス東インド会社が最初にお茶を輸入したのは1669年で、
福建省南部にある廈門(アモイ)港からのお茶222ポンドでしたが、
それから約50年後の1721年から1730年には880余万ポンドと、
何と約4万倍という驚異的に増大しました。
18世紀から19世紀にかけて、イギリスのお茶はほとんどChina産でした。
しかし1830年代になると、インドでも茶の栽培が始まりました。
というのも1823年に、東インド会社の軍人であったブルース兄弟の兄によって
インドの奥地アッサム地方で茶の木が発見されたからでした。
これが「アッサム種」で、
「中国種」と並んで今日でも茶の二大品種となっているものです。
東インド会社はアッサムに有名な茶園を開設し、
次いでダージリン、インド地方、 セイロン等に広げて行きました。
ロンドンの東インド会社の館では毎週お茶のオークションが開かれ、
ヨーロッパでのお茶の主要市場となっていました。
東方からお茶を持ち帰った船が「ティークリッパー」です。
1849年にイギリスの航海法が廃止されてChina貿易の門戸が開かれると、
1869年に出現した「カティーサーク号」で頂点に達します。
しかし、1869年に「スエズ運河」が開通すると、
アフリカ喜望峰を迂回するルートをとる必要はなくなり、
また強力な動力で進む蒸気船の前に、
風の力を頼りに進む帆船はもはや用済みの存在となり、
人々を熱狂の渦に巻き込んだ「ティークリッパー・レース」はあっけなく幕を閉じました。
1881年には、お茶を運ぶためにダージリン鉄道が開通しました。
山間部をぬって走り、お茶を集め、輸出港カルカッタに運び、
更にアメリカなど世界市場に輸出されるお茶のルートが開かれたのでした。
その後、1857年に東インド会社の統治に反対する広範なインド人の抵抗運動
「セポイの乱」が起こったことや
イギリス国内での自由貿易を求める動きの高まりなどから、
同年、東インド会社は解散されることになりました。