優しいのみもの

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お茶の歴史

日本茶 

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茶の原産地

 
お茶には「緑茶」、「烏龍茶」、「紅茶」などがありますが、
これらは全てツバキ科の常緑樹である茶の葉から出来ています。
チャには、「中国種」と「アッサム種」とがあります。
両者の形態や生態が大きく異なるため、
チャの原産地は、2つの地域に分かれるという説がある一方、
両種の染色体数が同じため、大差はなく、
原産地は1つだとする説もあります。
 
その原産地は、
中国の四川・貴州・雲南地方とする説、
雲南の西双版納(シーサンパンナ)に限定する説もありますが、
現在では、中国西南地域を中心とした
「東亜半月弧(とうあはんげつこ)」と呼ばれる地域を
起源とする説が多数派です。
 
長い歴史の間に、そこから一方は海を渡って日本に、
一方はインドや東南アジア山地の各地へ波及したと考えられます。
(世界の茶の呼びかたは2通り「チャ」と「テ」)
 
 

人と茶の出会い

 
Chinaの神話の世界では、
約5000年前に、「神農」が人の体に良い植物を見つけるために、
数多くの試食をし、茶の葉を解毒に用いたと伝えられています。
 
紀元前59年、王褒(おうほう)の『僮約』という
一種の使用人と労働契約書に、
「茶を烹る」「武陽で茶を買う」と書かれてあるのが、
世界で最も古い茶の記録です。
 
Chinaでは、少なくとも約2000年前から茶が売られており、
おそらくそれよりずっと以前から茶が飲まれていたと考えられます。
その後、多くの人々に喫茶が広まり、
唐の時代(760年頃)には、陸羽の有名な
「茶は南方の嘉木なり・・・」で始まる『茶経』が出版されました。
 
 

日本への茶の伝来

わが国に初めて茶が伝えられたのは
古い記録では奈良時代に「行茶の儀」が行われていたと記され、
それが日本の茶に関する最初の記録だと言われています。
平安時代の初めには
伝教大師最澄や弘法大師空海などが
中国(唐)から茶を持ち帰り、
その喫茶法を伝えた事実(805年頃)は広く知られています。
 
その当時のお茶は「餅茶」と考えられています。
後に「団茶」も作られるようになります。
「餅茶」は臭いが強くて日本人の好みに合わず、
その製茶技術は普及しませんでした。
折しも894年、遣唐使が廃止されたこともあり、
固形茶は衰退していったものと考えられています。
(大福茶の起源)
 

碾茶の伝来

 
鎌倉時代の初め(1191年)、宋から帰国した栄西禅師は、
当時宋で行われていた
「碾茶の製法」とその「喫茶法」を日本に伝えました。
 
栄西は栂ノ尾高山寺の明惠上人に茶の栽培と愛飲をすすめ、
その後「喫茶養生記」を著して茶の効用を説きました。
こうして抹茶の喫飲が日本の国内に広まっていきました。
 

宇治茶の起り

栂尾茶の栽培を始めた明恵上人は、
茶の成育に適した風土を求めて、川霧の深い宇治を選びました。
明恵上人は、栂尾のチャから種子をとり、
宇治の五ケ庄大和田の里に蒔いたと伝えられ、
これが宇治茶の発祥とされています。
後に、栂尾茶は「天下一の茶」として珍重されるようになります。
 

闘茶と一服一銭の茶

 
鎌倉末期には、寺院だけでなく、
貴族や武士層にも喫茶の習慣が広まります。
やがて社交の場として「会所の茶」が流行しました。
その会所の茶は遊興的な「闘茶」に発展し、
酒や食事を持ち込んだり、賭け事が行われたりしました。
 
一方、15世紀の初頭、東寺の門前などで
参拝客に茶湯一杯を安価で供する「一服一銭」などが生まれ、
これらを通して一般人にも喫茶が広まっていきました。
 

茶の湯の大成

室町時代に始まった殿中や書院の「茶の湯」は、
村田珠光、武野紹鴎などによって世に広まりました。
やがて 千利休が、茶の湯を大成します。
利休の深みのある茶の世界は、
織田信長や豊臣秀吉をも惹きつけます。
重要ポストに登用されて天皇にも茶を点てましたが、
茶においては身分の上下はないものとして、
侘び茶の精神を当時の社会に遍く伝えました。
 

茶産業の発展

 
江戸時代に入ると、茶の湯は幕府の儀礼に取り入れられ、
武家社会に定着していきました。
 
また、問屋・仲買・小売商などの茶流通業も発達し、
全国各地に流通の拠点である「茶町」が誕生し、
元禄元(1697)年発刊の『本朝食鑑』には、
「近時、江東(かんとう)の俗習に、
 常に朝飯の前に先ず煎茶を数碗飲むが、
 これを朝茶といい、婦女が最もよく嗜んでいる」
という記述があるように、
庶民の間にも喫茶の習慣は定着していたようです。
 
農書によって茶の栽培が勧められたことから茶の栽培地は拡大し、
江戸時代中頃には東北、北陸地方にまで
商品作物としての茶栽培が拡大していきました。
 
18世紀中頃には、
宇治の永谷宗円によって「蒸し製煎茶」の製法が確立され、
急須を用いる茶が次第に普及し始めます。
江戸時代の末期(1835年)には、
山本山六代目・山本嘉兵衛徳翁が宇治郷小倉において
「碾茶栽培の技術」と「蒸し製煎茶の製法」を基に
「玉露」を発明しました。
 

日本茶の輸出

 
幕末の開国を契機に緑茶の輸出始まりました。
明治政府は殖産興業政策の一環として茶業振興にも力を入れ、
万博などを通じて国際的な売り込みを図る一方、
茶園の開発、栽培や製茶に関する技術開発も進みました。
輸出の主たる相手はアメリカでした。
 
また、これまで男性に独占されてきた茶の湯が、
女学校の教育にも取り入れられるようになって、
女性の間にも広がりを見せていきました。
 
昭和恐慌を経て、日本の大陸への進出が続く中で、
茶の新たな市場として新興国のソ連や、
日本の経済的影響力が強まった蒙古などへの輸出も始まりましたが、
戦争勃発により、生産量は一気に落ち込みました。
 

戦後から現代

 
戦後、連合軍から食糧援助の見返物資として、
「繊維製品」などと共に「茶」が指定されたことは、
茶業復興に弾みをつけました。
 
昭和26(1951)年のサンフランシスコ講和会議によって
日本が独立を回復し、民間貿易が認められると、
日本の紅茶と緑茶が
中東からアフリカに向けて大量に輸出されるようになりました。
また、朝鮮戦争を契機に、日本の国内景気も上向きとなって、
茶の国内需要が伸び出しました。
 
国民生活の変化やコーヒーなどの嗜好飲料の普及によって
日本の茶生産は、昭和50(1975)年にピークに減少します。
また、缶入り緑茶飲料の開発と
それに続くペットボトルの普及につれて、
急須を用いた旧来の茶の飲み方は次第に減少していきました。