紅茶の歴史
1610年、西欧に初めてお茶を伝えたのは、
当時、東洋貿易において独占的な立場にあった
オランダの東インド会社でした。
この時は、紅茶ではなく、平戸で買った日本茶と
マカオでポルトガル人から買ったChina産の緑茶でした。
一方、同じく東インド会社を経営していたイギリスは、
1669年にオランダ本国からのお茶の輸入を禁止する法律を制定し、
宣戦布告します(英蘭戦争)。
勝利を収めたイギリスはChina貿易で優位に立ち、
イギリス東インド会社が基地を置く
福建省厦門(あもい)のお茶が集められ、
それがイギリス国内に流通するようになりました。
厦門に集められたお茶は、
半発酵茶「武夷茶」で、この茶葉の色が黒かったことから、
“black tea”と呼ばれ、やがて西欧におけるお茶の主流になりました。
そして1823年、
イギリスの冒険家ブルースがインドのアッサム地方で
自生の茶樹(アッサム種)を発見されます。
そして、中国種と新しいアッサム種との交配が進み、
インド各地やスリランカ、バングラデシュで
お茶の栽培が盛んになるのです。
1870年代には、オランダもインドネシアにおいて
本格的なプランテーションを開発し、
自国の消費と貿易の商材としたため、
インドネシアがインド・スリランカ・ケニアとともに、
世界有数の紅茶生産国となりました。
そして、紅茶の生産は第二次世界大戦後、
アフリカ諸国(ケニア・マラウイ・南ア共和国など)に広がっていきます。